エッセイ

トランス問題の新たな局面

松岡宗嗣さんによる「君は女ではないと言われているようで...」トランスジェンダー女性教諭が女子トイレを使えない理由とは記事が話題である。

 

 

女性と結婚し、子どもをもうけたが、3年前から女性として生きている香織さんが、「多目的」のトイレか「男性」トイレしか使えないことによって、ひどく傷つけられているという記事である。「保護者や教育委員会からトランスジェンダーであることを理由に苦情などがきたということもない」とのことで、香織さんの帳面する問題は、当面、トイレの使用に限られているようだ。

 

 

 

近年、トランスジェンダーのトイレの使用をめぐっては、とくに議論の焦点となっている。例えば、今年出されたばかりの学術会議による提言、「性的マイノリティの権利保障をめざして(2)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー」では(そのポイントはここ)、性同一性障害特例法の廃止と、性別変更手続の簡素化を主眼とした新しい法律の立法が求められている。「生物学的な性と性の自己意識が一致しない」人たちが、性別適合手術を受けた後もなお、戸籍を変更できない問題から、特例法が制定された。

 

 

それから20年弱が経過し、問題は新しい段階に来ているようだ。香織さんのように、結婚して子どもがおり、性別適合手術を受けていない人の場合は、1)日本では同性婚が認められていないこと、2)性別変更の際には、未成年の子どもがいないことが前提とされていること、3)特例法は、そもそも「性同一性障害」の診断を受けて、性別適合手術を受けたひとの戸籍変更のための法律であるため、香織さんのようなひとを対象としたものではないこと、などから、戸籍の性別変更は難しい。

 

 

その新しい法律の策定のために、学術会議の提言が立法事実としているのは、「『女性』をシスジェンダー(身体と性自認が一致)の女性に限定し、トランス女性を排除する動き」であり、その根拠とされる文献には以下のようなものが挙げられている。

  

お茶の水女子大学の報道時にあった懸念のうち、いまも中心的話題となっているのが、トランス女性の女性トイレについてである。トランス女性と女装した犯罪目的の男性とは見分けがつかないため、シスジェンダーの女性(性別違和を持たない女性)が危険な目に遭う。だから、女性専用スペースをトランス女性は使うべきでないと主張されている。

 

 危険を避けるために、どうすればトランス女性と犯罪目的の男性の「見分け」ができるかが議論され……「トランスジェンダーは『誰でもトイレ』だけを使用すればいい」と隔離する案が出された。

 

 これらの言葉は、シス女性の「恐怖」を盾にトランス女性を潜在的な犯罪者のように扱い、人権を損なっている。……トランス女性がトラブルを避けることに心を砕き、「誰でもトイレ」を探したり、排泄に我慢を強いられたりしている事実も無視するものだ。私たちは誰もが個人の尊厳を守られ、幸福を追求する権利を持っているが、いま現在、トランス女性の権利は十分に保護されていない状況なのだ(堀あきこ)。

 

もう半年近く、ツイッター上で、フェミニストを自称する女性たちとその同調者による取らぬジェンダー女性(Trans-woman。男性として生まれ女性として社会生活を送っている人。以下、トランス女性と略称)への排除的・差別的な書き込み(ツイート)が続けられている。

 

 排除の対象となる場は、主に女子大学、女子トイレ、女湯、女子スポーツである。排除派は、トランス女性が、これらの「女性専有スペースに、不当にも侵入している」として排除を主張する(三橋順子)。

  

トランスの「女子大学、女子トイレ、女湯、女子トイレ」からの「不当な排除」(三橋さん)や、「女子トイレ」からの排除と「誰でもトイレ」への隔離(堀さん)が問題とされているのだから、香織さんはまさにこうした議論の対象となる事例であり、「女子トイレからの排除」の問題の事例ということになる。

 

 

松岡さんが文章内で挙げている経産省の女性トイレをめぐる裁判(高裁で係争中。地裁の判決文によれば)は、そもそもが「性同一性障害」の診断を受け、性別適合手術を予定してたにもかかわらず、手術ができなくなったケースであり、教員よりは内部の異動の多い職場で「女性」として暮らす実績を積み、ある意味で「埋没」されているケースである。香織さんのケースと少し異なる点があるとすれば、そこであろう。

 

 

これまでのトイレをめぐる設計は、性別区分によって「安心・安全は守られる」という思想であった。しかしトランス女性も被害者となるし、さらにいえば、男性の性被害者もまた、多数存在するのである。まず解決策は、こうしたトイレにおける安全設計の一部を、性別不関与なものにすることである。「同性同士のトイレなら安全」も、つねに成立するとはいえない。

 

 

思い返せば、小学校では男子生徒が個室に入ると、はやしたてられ、いじめられるということがあった。そのため男子生徒のなかには、極限までトイレに行くのを我慢している人もいた。お手洗いは、社会参加のための条件であり、基本的人権のひとつである。多くの発展途上国で、安心安全なトイレがないために、女性が社会的に排除されていることからしてもそれは明らかだ。また、荒れていた中学校では、男女ともトイレにおけるリンチは日常茶飯であった。そういう場所であってはいけない。

 

 

いま生じてきた新しい問題は、かつてのトイレという空間が必ずしも、安全・安心を提供してはこなかったということも焙り出している。私たちの社会は、すべてのひと多様性のために、経済的なコストを払わなければならないと思う。「だれでもトイレ」の数をできる限り、多くするべきである。

 

 

しかし「だれでもトイレ」などのプライバシーの保てる個室であっても、盗撮やナプキンの盗難などの依然として解決しない問題は残されている。同じトイレに居合わせるタイプの犯罪の場合、被害者に関しては性別非関与的ともいえるため、個室の増設による解決は可能である。しかし、誰でもトイレなどの同時にではないが同じ空間を使うことによって生じる盗撮などのタイプの犯罪の場合、問題は加害者の出入りになる。そしてほとんどの場合、加害者は男性であり、その意味では性別関与的だからだ(もちろん「実行犯」として女性が雇われることもあるが、他人を関与させればさせるほど、犯罪としては発覚しやすくなる)。

 

 

こう考えれば、すべての人が安心・安全にアクセスできる、完全にプライバシーの確保できる、そういったトイレのありかたの解決策は、一筋縄ではいかない。現在のトイレが、性別関与的に設計されているのは、私たちの社会において、性別が大きな意味を持ってきたからである。そもそもの性加害がなければ、トランス女性もシス女性も、安心して暮らせるのだ。そういう意味においてこれはトイレの問題は実は、「男性問題」である。