エッセイ

思想警察に抵抗するJKローリング

イギリス共産党のHPに掲載された、JKローリングに関する論考を試訳しました。大学を出た若い人たちが、JKローリングを攻撃する理由は、「ポストモダン」思想の影響だという指摘には、個人的にはもろ手をあげて賛同することはできませんが、「思想警察」の問題点は、確かにあります。


簡単そうに見えて、諧謔が効いていて、とても訳しにくかった。間違いなどあれば、お知らせください。

 

 

思想警察に抵抗するJKローリングのスタンス(2020年7月9日)

著者であるJKローリングの現実を守るという勇気あるスタンスは守られるべきだし、ローリングをヒステリックに中傷する人たちは、いかに酷い反動的ないじめをする人たちであるかを知らしめています。

 

いまや、ハリーポッター本の著者であるJKローリングが自称トランス活動家の標的になっていることは、おそらく世界中でよく知られているでしょう。なぜなら、彼女はツイートで、「月経のある人」の代わりに「ジェンダー化された」言葉である「女性 women」を使うことを避けようとする試みを、やんわりとあざ笑ったからです。

 

ポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)を強制する人たちには、ローリングを「ばばあ」と呼ぶことから、身体的暴力やレイプをすると脅すものまで、様々な反応がありました。素敵ですね!

 

これらの憎しみを吐き出している人たちは、脅迫行為で犯罪として訴追されるべきですが、実際には彼らの方が、セックスは生物学的な現実であると認める人たちを批判するという厚かましい事態になっています。セックスは生物学的現実だと認める人たちは、必然的にトランスの人たちを「憎んでいる」というわけなのです。でも、明らかにセックスが生物学的な現実であるということと、トランスの人たちを「憎んでいる」ということの間には、論理的な結びつきはありません。

 

ローリングさんは、6月12日の「Times」に、それに対する長い文章を書いてこたえています。それは、ローリングはトランスに深い共感を寄せるけれども、それと同時に生物学的な性別を否定することはできないというものでした。

 

 

 

トランスの人々に共感を寄せ、事実上トランスの人たちが選んだ性別(gender)で生活する権利を認めることは、しかし、男性と女性という異なった性別(sex)が存在しているということを否定するものでも、生物学的な性別が存在しないと宣言させられるものでもありません。それは女性であることや女性の権利を否定するに等しいことだし、近代社会における女性嫌悪をかなり反映するものでもあります。

 

ローリングさんがこのように共感的に、そして繊細にこの問題にアプローチしていることは、間違いなく、イギリス(British)の圧倒的多数の人々の態度と同じです。しかし、ハリーポッターの映画に出演することで有名になった様々な俳優たちが、嫌がらせの雄たけびをローリングに向けてあげたこと、例えばいそいそとローリングさんを非難し、彼らの友人関係からローリングさんを追い出したことは、信じられないことです。

 

しかし、ひどく愚かだと非難されるべきは、彼らの方です。もちろん、彼らにだって馬鹿げた見方をする権利もありますが、友情を壊すようなものである必要はないわけですし、ましてや身体的暴力やレイプの脅威である必要はないのです。

 

トランスの人たちに対する態度に関して言えば、トランスの人たちは殴られ、殺されるべきだと宣言したり、ましてやわざわざ嘲笑したり、馬鹿にしたりしていいと言う人とは、友達をやめるでしょう。でも、例えば出生証明書の変更認定はちょっと行き過ぎているとか、そんな考えに賛成できないというだけで、その人の友情が終わりになりますか? または、明らかにまだ身体的に男性である人たちに、女性の更衣室を使うことを許可してはいけない、女性の避難所にいるのはどうかと主張する人たちに賛成できないときには? または、身体がもともとは男性だから、強さの面で優れているから、スポーツで女性と競争するのはどうかとということに、賛成できないときには?

 

政治的な正しさを利用するいじめの多くは、大学在籍中の学生か、大学院生、大学を卒業した若い人 (graduates)であり、このことは大学が、今日の人文科学の学生たちに「ポストモダン」の観念論的な思想を押し付けているという事実と関係しています。こうした思想は、物質世界に当たるものは観念の正しさを判断する土台をもたないと、主張するものです。それどころか、これらの近代を否定する思想によれば、正しさの唯一の基準は、多くの人たちが真実だと「信じる」ことに過ぎないというのです(もしくは、エリートたる「教育を受けた」多くの人たちが真実だと信じること)。

 

 

 

もしも、この物質的な世界から、具体的で、否定のしようのない証拠を示したとしても、人々に心を入れ替えるように説得するのは、必ずしも簡単ではありません。だから、もしもあなたが真実の基準として物質的な現実を否定するとしても、違った意見を押し付けられて、それが大多数の人の「パブリックオピニオン」、ポストモダンの意味では新しい「本当 true」の考え方なんだと、受け入れろといわれたからといって、すっかり態度を変えてしまうなんてことができますか?

 

ええと、同意してくださいと誘導して、錯覚させることはできるでしょう。でも、それがうまくいかない場合、もっと地に足が付いた、真面目なタイプの人相手の場合、できることは、恐怖で黙るだろうと期待して、いじめや脅しをすることしかありません。ほかに何ができます?この点で、確かに、殺してやる、怪我を負わせるぞ、厳罰を与えるぞ脅すことで、宗教的な信念を諦めさせようとする、間違いなく非難されるべき人々と、なにか違いがありますか?

 

いくつかの不可解な理由のために、「政治的に正しい」ことはしばしば「左翼」である人々にもっぱら帰せられます。マルクス主義はもちろん、通常、「左派」の本質的な哲学であると考えられています。しかし、マルクス主義の哲学は弁証法的および歴史的な唯物論(materialism)であり、どんなに多くの人々が学んだり信じているかもしれないけれども、それとは関係なく、その最も基本的な信条の1つは、観念は、物質的な現実と一致する場合に「だけ」真実だというものなのです。

 

かつて実際に、人々はみな、地球は平らであり、太陽が地球の周りを公転していると信じていました。しかしそれらの考えは、結局、真実とはならなかった。したがって、女性と男性の間に生物学的な差異はないと信じるようにと嫌がらせをしようとも、それは真実になることはないのです。

 

(男女に)違いがあるって最高!Vive la difference! 女性の権利を守り、女性の権利を消去させないようにしましょう! 思想警察を告発しましょう! JK ローリングと、真実を擁護する人を支持しましょう!