エッセイ

みなさまからのエッセイです

トランス問題の新たな局面

松岡宗嗣さんによる「君は女ではないと言われているようで...」トランスジェンダー女性教諭が女子トイレを使えない理由とは記事が話題である。

 

 

女性と結婚し、子どもをもうけたが、3年前から女性として生きている香織さんが、「多目的」のトイレか「男性」トイレしか使えないことによって、ひどく傷つけられているという記事である。「保護者や教育委員会からトランスジェンダーであることを理由に苦情などがきたということもない」とのことで、香織さんの帳面する問題は、当面、トイレの使用に限られているようだ。

 

 

 

近年、トランスジェンダーのトイレの使用をめぐっては、とくに議論の焦点となっている。例えば、今年出されたばかりの学術会議による提言、「性的マイノリティの権利保障をめざして(2)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー」では(そのポイントはここ)、性同一性障害特例法の廃止と、性別変更手続の簡素化を主眼とした新しい法律の立法が求められている。「生物学的な性と性の自己意識が一致しない」人たちが、性別適合手術を受けた後もなお、戸籍を変更できない問題から、特例法が制定された。

 

 

それから20年弱が経過し、問題は新しい段階に来ているようだ。香織さんのように、結婚して子どもがおり、性別適合手術を受けていない人の場合は、1)日本では同性婚が認められていないこと、2)性別変更の際には、未成年の子どもがいないことが前提とされていること、3)特例法は、そもそも「性同一性障害」の診断を受けて、性別適合手術を受けたひとの戸籍変更のための法律であるため、香織さんのようなひとを対象としたものではないこと、などから、戸籍の性別変更は難しい。

 

 

その新しい法律の策定のために、学術会議の提言が立法事実としているのは、「『女性』をシスジェンダー(身体と性自認が一致)の女性に限定し、トランス女性を排除する動き」であり、その根拠とされる文献には以下のようなものが挙げられている。

  

お茶の水女子大学の報道時にあった懸念のうち、いまも中心的話題となっているのが、トランス女性の女性トイレについてである。トランス女性と女装した犯罪目的の男性とは見分けがつかないため、シスジェンダーの女性(性別違和を持たない女性)が危険な目に遭う。だから、女性専用スペースをトランス女性は使うべきでないと主張されている。

 

 危険を避けるために、どうすればトランス女性と犯罪目的の男性の「見分け」ができるかが議論され……「トランスジェンダーは『誰でもトイレ』だけを使用すればいい」と隔離する案が出された。

 

 これらの言葉は、シス女性の「恐怖」を盾にトランス女性を潜在的な犯罪者のように扱い、人権を損なっている。……トランス女性がトラブルを避けることに心を砕き、「誰でもトイレ」を探したり、排泄に我慢を強いられたりしている事実も無視するものだ。私たちは誰もが個人の尊厳を守られ、幸福を追求する権利を持っているが、いま現在、トランス女性の権利は十分に保護されていない状況なのだ(堀あきこ)。

 

もう半年近く、ツイッター上で、フェミニストを自称する女性たちとその同調者による取らぬジェンダー女性(Trans-woman。男性として生まれ女性として社会生活を送っている人。以下、トランス女性と略称)への排除的・差別的な書き込み(ツイート)が続けられている。

 

 排除の対象となる場は、主に女子大学、女子トイレ、女湯、女子スポーツである。排除派は、トランス女性が、これらの「女性専有スペースに、不当にも侵入している」として排除を主張する(三橋順子)。

  

トランスの「女子大学、女子トイレ、女湯、女子トイレ」からの「不当な排除」(三橋さん)や、「女子トイレ」からの排除と「誰でもトイレ」への隔離(堀さん)が問題とされているのだから、香織さんはまさにこうした議論の対象となる事例であり、「女子トイレからの排除」の問題の事例ということになる。

 

 

松岡さんが文章内で挙げている経産省の女性トイレをめぐる裁判(高裁で係争中。地裁の判決文によれば)は、そもそもが「性同一性障害」の診断を受け、性別適合手術を予定してたにもかかわらず、手術ができなくなったケースであり、教員よりは内部の異動の多い職場で「女性」として暮らす実績を積み、ある意味で「埋没」されているケースである。香織さんのケースと少し異なる点があるとすれば、そこであろう。

 

 

これまでのトイレをめぐる設計は、性別区分によって「安心・安全は守られる」という思想であった。しかしトランス女性も被害者となるし、さらにいえば、男性の性被害者もまた、多数存在するのである。まず解決策は、こうしたトイレにおける安全設計の一部を、性別不関与なものにすることである。「同性同士のトイレなら安全」も、つねに成立するとはいえない。

 

 

思い返せば、小学校では男子生徒が個室に入ると、はやしたてられ、いじめられるということがあった。そのため男子生徒のなかには、極限までトイレに行くのを我慢している人もいた。お手洗いは、社会参加のための条件であり、基本的人権のひとつである。多くの発展途上国で、安心安全なトイレがないために、女性が社会的に排除されていることからしてもそれは明らかだ。また、荒れていた中学校では、男女ともトイレにおけるリンチは日常茶飯であった。そういう場所であってはいけない。

 

 

いま生じてきた新しい問題は、かつてのトイレという空間が必ずしも、安全・安心を提供してはこなかったということも焙り出している。私たちの社会は、すべてのひと多様性のために、経済的なコストを払わなければならないと思う。「だれでもトイレ」の数をできる限り、多くするべきである。

 

 

しかし「だれでもトイレ」などのプライバシーの保てる個室であっても、盗撮やナプキンの盗難などの依然として解決しない問題は残されている。同じトイレに居合わせるタイプの犯罪の場合、被害者に関しては性別非関与的ともいえるため、個室の増設による解決は可能である。しかし、誰でもトイレなどの同時にではないが同じ空間を使うことによって生じる盗撮などのタイプの犯罪の場合、問題は加害者の出入りになる。そしてほとんどの場合、加害者は男性であり、その意味では性別関与的だからだ(もちろん「実行犯」として女性が雇われることもあるが、他人を関与させればさせるほど、犯罪としては発覚しやすくなる)。

 

 

こう考えれば、すべての人が安心・安全にアクセスできる、完全にプライバシーの確保できる、そういったトイレのありかたの解決策は、一筋縄ではいかない。現在のトイレが、性別関与的に設計されているのは、私たちの社会において、性別が大きな意味を持ってきたからである。そもそもの性加害がなければ、トランス女性もシス女性も、安心して暮らせるのだ。そういう意味においてこれはトイレの問題は実は、「男性問題」である。

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SOGIESC

SO(Sexual Orientation)性的指向

GI(Gender Identity)性自認

E(Expression)性表現。自分の性をどう表現するか。男らしい、女らしい、中性的など、服装や言葉遣い

SC(Sexual Characteristics)性的特徴。生まれもった身体の性。ちんこがあるとかないとか

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性転換手術と刑法に関する一考察 稲田朗子

https://kochi.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=6257&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1

1995年 5 月22日,埼玉医科大学倫理委員会に「性転換治療の臨床的研究」(主任研究者:原科孝雄)と題する実施申請がなされた。

埼玉医科大学倫理委員会は審議の後,1996年 7 月 2 日に石田正統学長に答申書を提出した。

本答申は, 外科的性転換治療を行うにはいまだ環境が整っていないので,環境整備等なされた後,改めて倫理委員会で審議するというものであり,性転換治療実施に道を拓くものと認識された。

この答申を受けて,日本精神神経学会・性同一性障害に関する特別委員会は,1997年 5 月28日付「性同一性障害に関する答申と提言」のなかで「性同一性障害の診断と治療のガイドライン」を公表した 。

そして1998年10月16日,埼玉医科大学総合医療センターにおいて,日本国内で初め て公式の性別適合手術(性転換手術)が実施された。

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茨城県男女共同参画推進条例

https://www.pref.ibaraki.jp/somu/somu/hosei/cont/reiki_int/reiki_honbun/ao40013361.html

 

(性別による権利侵害の禁止)


第19条 何人も,セクシュアル・ハラスメント(性的な言動により当該言動を受けた個人の生活環境を害すること又は性的な言動を受けた個人の対応により当該個人に不利益を与えることをいう。以下同じ。)を行ってはならない。

2 何人も,配偶者等に対し,身体的又は精神的な苦痛を与えるような暴力的行為を行ってはならない。

3 何人も,性的指向(自己の恋愛又は性愛の対象となる性別についての指向のことをいう。以下同じ。)及び性自認(自己の性別についての認識のことをいう。以下同じ。)を理由とする不当な差別的取扱いを行ってはならない。

「茨城県に、LGBT差別禁止条例ができた!!」と騒がれていますが、実態はこれだけです。

「性自認を理由とする不当な差別的取扱いを行ってはならない」とありますが、抽象的すぎて何にもわかりません。

もっと、具体的な指針が欲しいですし、それがないと、なんでもかんでも「言ったもん勝ち」になってしまいますよね。

 

そもそも、「性自認(自己の性別についての認識のことをいう)」ってなんでしょう?

これがわからなければ、「性自認を理由とする不当な差別的取り扱いを行ってはならない。について、理解不可能ですよね。

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すべてのトランスジェンダーの人々が性別確認手術を受けたいとは思っていない

人はいつから、『すべてのトランスジェンダーの人々が性別確認手術を受けたいとは思っていない』と述べなければいけなくなったのだろう。

それを怠ると、どこからどんなメッセージが飛んでくるというのだろう。

 

Illinois rolls out plan for Medicaid to cover gender reassignment surgery

Cooley said not all transgender people want to get gender affirmation surgery and said the procedures aren’t widely offered by doctors.
 
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朝おん

結局のところ、『朝おきたら女(男)になっていましたというのが理想』というのがトランスジェンダーというか性同一性障害というか性別不合界隈の暗黙の了解というところを信じたい面もあるわけです。

ところがそれは、現代医療の技術ではそこまで到達していないので、できる範囲でどこまでやるか、というのが、こりゃまた悩みの種というか現実的な解になるわけです。

 

そこに到達点としてのコンセンサスが得られてない人たちとは、こりゃまた上手に話すことはできないよなぁ的なことは考えます。
だってまぁ、みんながみんなと仲良く暮らさなければならないなんてことはないのだしね。

 

だから『仮に朝おきたら性別が変わってるという丸薬があったとしても私は飲まない!私は私の今の身体のままで社会的な性別を変えて生きる!それがトランスジェンダーの多様な生き方というもんだ』という方々とは理解しあえないよなぁと思います。

 

そもそも論として、sexとgender、femaleとwomenがうまく使い分けられない日本語という悪魔の言語では、この手の話を論じることはとても難しいのよ。かなり、書き手がそこを意識してくれないと、たちまち曖昧な内容になっちまうんだよ。お判りいただけますでしょうかね、わかるよね?そのくらい。

 

朝起きたら、社会的(gender)に女になってました。身体的(sex)には男のままですけど。では困ることもあるよね?困らない?それならいいけど、私はやっぱ嫌だよ。

 

その場合、社会が『この人はもともと男性です』という知ってる世界なのか知らない世界なのかでも違ってはくるよね。そして、朝起きたら社会的(gender)は男のままだけど、身体的(sex)は女になってました。というのもあり得るわけで、その場合もやはり、もともとの性別を知っていたかどうかがキーになるんかね。

でも、過去の自分との連続性をちゃんと証明できるのなら、それは『戸籍の変更』はうまく出来そうが気がする。ただ、結婚していたら同性婚になっちゃうから離婚は逃れられないかもね。仕方ない。

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不妊手術

リリーエルベの手術に対して、『人体実験』とか『失敗作』とか軽く言えるメンタルを持ってる人がトランスの味方のふりをしているというのは、まったくもってなんて恐怖なことなんだろう。


手術を望まない人がいるのはわかる。

私には理解不可能だが、ちんこ付いたままで戸籍の性別を女性に変更したいとか、そういう感情を持っているようだ。

それはそれで自由にしてください。

自由に活動してくださいと思う。

でも、その活動の一環として、所謂性別適合手術に対して、『不妊手術』や『断種手術』だと言ってdisするのは、まったくもって不適切であるばかりか、すでに手術を受けた人たちやこれから手術を検討している人たちにひどいstigmaを与えます。

トランスの戦いとは、いわばstigmaとの闘いではなかったのですか?

なのになぜ、自分と考え方の違うトランスを、激しく攻撃するトランスが存在するのだろう。

仲良くする必要はない、だけど、無意味に相手を攻撃する必要はないだろう。

「手術を望む人たちが全滅しないと自分たちは幸せになれない」と考えているようだとたまに感じることがある。

 

そもそも論として、望んで『不妊手術』を受けたいわけではないのだよね。

できることなら、望む性別の生殖機能を持ちたいと思っている。

男性→女性なら、子宮と卵巣を持って愛する人の子どもを産みたいと思うだろうし、女性→男性でも、愛する女性との間に子どもを持ちたいと思っているのだろう。

でも現代医療ではまだそれは無理なんだよね。

だから、仕方なく、見た目を近づけることで納得せざるを得ないわけでさ。

 

それに対して、「やーい、不妊手術、断種手術」なんて騒ぐのは、まったくもって、意気消沈で、けして「こいつらの仲間になりたいな」と思う気持ちが沸き上がるわけがない。


リリーエルベの頃から、子宮移植は試みられている。

でも、当時のそして現代の医療でもまだそれは実現できていないんだよね。

その辺のモニョモニョしたどうしようもない落ち込みの気分の心の傷跡に塩を塗り込むような「不妊手術」とかの言い方は、まったくもってありがたくないし、やめていただきたいものだよ。

まったくもって味方にはなれないし、それによって仲間になってきた連中とは、話は全く合わないのだろう。かみ合わないのだろう。

 

 

「だって、国連が手術は無しでもいいと言ってるんだもん」と済む人は、それはそれいいんだろう。

勝手にやってください。

 

でも、手術を望む人たちをdisするような行動や発言は慎んでください。人として当たり前の話です。

 

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障害ならしようがないよね

これって、なんでそんなに哀れみの言葉だと受け取る人がいるんだろう。別に「かわいそうな私」アピールなんかしてはいないよ。

 

世界には、「精神障害なんだから、自分の性別を自分で決めることなんかできやしないだろう」とか「精神障害なんだから、まともな仕事なんかできやしないだろう」なんて偏見のある国がまだまだあるらしく。例えば、就職活動の応募条件に「精神科に通ったことがないこと」なんてことが書いてある国があるらしく、なるほどまぁそんな国々なら、精神疾患のジャンルに性同一性障害が含まれているのはstigmaになるよね、というのは理解できる。逆にいうと、そのような背景があることを、きちんと理解していないまま、なんとなく「障害ってひどい、個性だよね」なんて言っちゃうのは、別に味方でもアライさんでもなんでもないからな?無能な味方は優秀な敵よりたちが悪いんだよ。

 

日本だとどう?

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性同一性障害は『性別不合』に名称変更します

タイトルでほぼすべて言い切ってるな。

そういうことです。

英語では、Gender incongruence。

けして「性同一性障害は消滅しました」なんてことはない。それはちょっとミスリードが酷いよな。

まぁほんとのところ、性別不合もまだ厚生労働省的には仮訳だ。そのうち正式に決定するであろう。

 

この五月に世界保健総会へ提出されました。そんだけ。

 

国際疾病分類の第11回改訂版(ICD-11)が公表されました

 

https://icd.who.int/en

 

詳しくは、上記のWHOのページから参照しましょう。

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性同一性障害とか名前とか

ぶっちゃけ、性同一性障害とか性別違和とか性別不合とか、Gender Identity DisordertとかGender DysphoriaとかGender Incongruence とか、まぁ名前なんてどうでもよくて、要は「医療ケアをきちんと受けられること」が大事なわけです。

具体的な話をすれば、だいたい隔週でホルモン注射受けられるとか、その気になれば性別適合手術が受けられるとか、そういう「現実」が大事。

 

その意味で、「性同一性障害の名前は廃止されます!」とか、そんなのはどうでもいいんだよね。現実には廃止じゃなくて名称変更だけどさ。


要は、相変わらずに診断書をもらえて、ホルモン注射を受けることができて、その気になったら性別適合手術を受けられればそれでいい。

 

ただまぁ、『性同一性障害』という名前は、少なくとも日本語として日本国内では、それほど悪いイメージにはならなくて、むしろ理解をしてもらえることを促した感を個人的に感じているので、『性同一性障害』という名称の時に、しんどいいろんなことを実現できて駆け抜けたというタイムラインは、私にとってはよかったと思うよ。

 

これは『トランスジェンダー』という名称ではダメだったな。うまく理解が進んだかどうか、私には自信がない。ちょっと運がよかったと思うよ。

その意味で、今の若い人たちはちょっと可哀そうな気もしてる。仕方ないね。

でも、今、2020年に十代であるということでそうとう頑張れることもあるから、それはそれで羨ましいこともあるよ。

おばちゃんが十代の頃はなーんもなかった。ただただ、自分は変態なんだと思ってた。

 

そんな美しくもなんともない十代。

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コンバージョンセラピー

性別違和が消えるのなら、まぁ電気ショックでもなんでも受けるよというトランスはいるでしょう。

性別違和が消える錠剤があるなら飲みたいというトランスもいるでしょう。

もちろん、そうでないトランスもいるでしょう。

「トランスジェンダーであることが私のアイデンティティ」みたいな人たちもいるでしょう。


で、それを本人の意思を無視して強制することがダメなのであって、「性別違和を消す方法はないか」を医師や研究者たちが考えることや、きちんとしたインフォームドコンセントの後で、当事者が望んで受けることすらダメって話ではないよ。

「なぜコンバージョンセラピーはダメなのか」の根本を理解してないよ。

 

「私のことを私抜きで決めないで」という話なんだよ?

 

自分で決めたことなら、例え「不妊手術」とdisられても性別適合手術を受ける人はいるんですよ。

自分のことは自分で決めます。ということです。


電気ショックなんて酷い、子宮や卵巣を取ってしまうなんて酷いとかの話はまったくもって見当違いなんだよね。

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トランスジェンダー*:用語の修辞的風景

http://theangels.co.uk/2015/08/transgender-the-rhetorical-landscape-of-a-term/

トランスジェンダーの現在の主な定義は、傘のメタファーに依存しています(アンブレラターム)。

 

性同一性および/または性表現が、出生時に割り当てられた性別(sex)と異なる人のための包括的な用語。

この用語には以下のものが含まれますが、これらに限定されるものではありません。

トランスセクシュアル、クロスドレッサー、その他の性別を異にする人々。
(“ GLAADメディアリファレンスガイド”)

この包括的で「限定されていない」用語はどのように論争を招くのでしょうか?

 

トランスジェンダーはトランスセクシャルを排除するための植民地化用語であり、現代のオンライントランスコミュニティの間で「トランスウォーズ」として知られ、「詐欺だ」と批判している人もいます。
特にトランスジェンダーがトランスセクシャルを排除していると感じる人のために、この用語に関する議論はその歴史的出現について語られた物語に根ざしています。
トランスジェンダーの歴史的出現についての特別な話が目立つようになっています。


ヴァージニアプリンスは「トランスジェンダー」という用語を名詞として(トランスセクシャルでもトランスヴェスタイトでもなく)「生殖器に頼ることなく社会の性別:gender を恒久的に変えた人々」と表現した」(Stryker “(De)Subjugated”)


1990年代初頭、レスリー・ファインバーグは、影響力のあるパンフレット「トランスジェンダー解放」において名詞から形容詞へと用語を変更し、ジェンダー抑圧に直面した人々を含むように定義を拡大しました。
これが「トランスジェンダー」の現代的な用法の総称としての誕生です。(Rawson 124–125)


しかし結局のところ、この物語は事実上不正確であるだけでなく、トランスジェンダーの歴史的出現を深刻に過度に単純化しすぎています。
この論点は単に歴史的な正確さの問題ではありませんが、サブカルチャー用語がどのように発明され流通しているかを理解するための異なる方法を表しています。

 

問題の核心は単なる定義的または語源的なものではなく、むしろ文脈的景観や変化する地域社会のリーダーシップとの動的な関係において、サブカルチャー言語が出現し循環する方法です。

 

重要なことは、ヴァージニアプリンスは、トランスジェンダーという用語からトランスセクシャルを非常に明確に除外したことです。

 

トランスセクシャルを排除する用語としてのトランスジェンダー。


1990年代のいくつかの主要な文化的出来事がこの用語の採用を後押しした可能性が高いです。

トランスジェンダー法と雇用政策に関する国際会議(ICTLEP)が1992年から1996年まで毎年開催され、1992年に、レスリーファインバーグは「トランスジェンダー解放」という人気の小冊子を発行しました。

 

1995年には、TV-TS Tapestryという人気の雑誌がTransgender Tapestryとなりました。1996年に、トランスジェンダー・ドットコムは、トランスセクシュアルとクロスドレッシングの両方のコミュニティのために登録され、紹介されました。

 

そして1997年に、Harry Benjamin International Gender Dysphoria Association が彼らの団体名を「The World Professional Association for Transgender Health (WPATH)」と名称変更しました。


要するに、1990年代初頭までに、「トランスジェンダー」という用語は、トランス + ジェンダー用語の間で注目を集めるようになり、医学界と活動家界の両方で確固たる足がかりを得ました。


病理概念や非病理であることにはなんの関係もありませんでした。


ヴァージニアプリンスは、「トランスジェンダーという用語は、フルタイムで女性として生活するという特定の行動のための名前で、SRSなしの意味で名前を付けた」と主張します。


プリンスは自分自身をこの用語の唯一の権威として位置づけ、自分自身と矛盾するトランスジェンダーの使用の反対を強く主張していました。
※ヴァージニアプリンスは、「トランスジェンダーにトランスセクシャルを含めるな」と強く主張してたということです。


それでも、トランスジェンダーを公​​式に定義しようとするプリンスの試みにもかかわらず、彼女が反対したトランスセクシャルを含む傘の用法:アンブレラタームは1990年代を通して人気を集め続けていました、そして2000年代までにそれは支配的な用法として固定されました。

 

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ICD-11

ICD-10は1993年にWHOがリリースしましたが、アメリカが採用したのは2015年の10月からです。

 

アメリカはそれまでICD-9を採用していました。

 

つまり、ICDの新しい版がWHOからリリースされても、世界中の国々が一斉に切り替えなければいけないというルールではないわけです。

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性同一性障害とトランスジェンダー

「性同一性障害という言葉がこんなに広がってるのは日本だけだ、日本は性同一性障害大国だ」と、理由も言わずにそれが悪いことのように言う人がいますけど、なんでそれじゃダメなのかの理由は言えないんだよね。

 

というか、逆に言うと、世界で日本だけが、トランスジェンダーの中で、「性同一性障害の診断を持っている人」と「持ってない・診断が出なかった人」を明確に分けることが可能なんだよね。これ、一部の人たちには非常に都合が悪いわけ。「トランスジェンダーとは、医療ケアを受けたい人も受けたくない人もいる。どちらもトランスジェンダーとして一緒である」という説明を強固にするためには、性同一性障害概念は邪魔なんだよね。「ただのクロスドレッサー(異性装者)・トランスヴェスタイト(女装者)も、性同一性障害の診断を持って医療ケアを受けて身体を望む性別に近づけてる人も、同じトランスジェンダーである」としておいた方が都合がいい人たちがいるんだよね。「クロスドレッサー(異性装者)・トランスヴェスタイト(女装者)」と「性同一性障害の診断を持って、医療ケアを受けて、望む性別で社会的にも生きてる人」を別にされると困るわけ。一緒のものとして、世間に誤解させておきたいんだよね。トランスジェンダーという意味を曖昧にしておきたい。

 

だから「性同一性障害という概念は廃止された」という宣伝に忙しかったりしてる。それは完全なウソで、正確には「性別不合に名称変更される(た)」なのにね。性同一性障害概念がこの世から消えた方が、なにかと都合がいいんだよね。そして、クロスドレッサーやトランスヴェスタイトも含んだ「トランスジェンダー」という名前を広めたいわけ。性同一性障害概念の元だと、クロスドレッサーやトランスヴェスタイトは排除されるからね。それでは困るわけ。

 

でもまぁ、厚生労働省は、「性別不合は性同一性障害の後継概念である」と正しく認識しているので、彼らの野望はシオシオになるでしょう。また彼らは、チャンスをうまく生かすことができなかった。

 

あと、「アンブレラタームとしてのトランスジェンダー」にも文句付けたりしてるよね。それは、アンブレラタームの元では、トランスジェンダーの中にクロスドレッサーやトランスヴェスタイトが含まれることが明確になってしまって、困るからなんだよね。

 

いずれにしても、「トランスジェンダーの語源はヴァージニアプリンス」説を採用するのであれば、そもそも「トランスジェンダーとは、トランスヴェスタイトである。クロスドレッサーである」という定義になるんだよね。アンブレラタームを採用することによって、はじめてその中に、トランスセクシャルや性同一性障害の診断を持ってる人たちが含まれるようになるんだよね。

 

さて、どっちを選びたいの?

 

ちゃんと「クロスドレッサーにも、性別自己選択の権利がある。戸籍の性別の取り扱いの変更を可能にせよ。当然、手術は無しだ」と主張すればいいだけなのにね。それはやらないよね。

 

※ヴァージニアプリンスは「トランスヴェスタイトとは男性だけである。女性は好きな服を着られるのだから、トランスヴェスタイトではない」と主張しているので、ここでは、トランスヴェスタイト=女装者としています。

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花丸 ジョグジャカルタ原則の真実

 

国連はそもそも、「LGBTの人々を暴力や差別から守るために、あらたに、LGBT固有の権利を創ったり、国際人権基準を確立したりする必要はありません」という立場。

そしたら「え?じゃジョグジャカルタ原則ってなんなの?」となりますよね。

性的指向と性同一性を理由とする差別との闘い

 

それはね、国連は、
「LGBTの人々の人権を擁護する各国の法的義務は、世界人権宣言とその後に合意された国際人権条約に基づく国際人権法で、すでにしっかりと確立されています」という立場なの。
新しい人権法は作りません。と。

 

でそうなると、世界のLGBT活動団体は、
「いや、まいったな、世界人権宣言にLGBTのことなんか具体的にはなんも書いてないじゃん」となるわけ。世界人権宣言とか、とても古いものだからね。
だから、専門家と称する人たちがインドネシアのジョグジャカルタに集まって「世界人権宣言とか他の国際人権条約からLGBTに使えそうなとこを抜粋して超訳してまとめようぜ」という会議を開いたわけ。

 

その会議で決めたのが、「ジョグジャカルタ原則」なのね。だから「LGBT人権法」とか「LGBT国際人権条約」とかじゃなくて、ただの「解釈の仕方の原則」なの。
世界人権宣言とかの文章を無理矢理にLGBTに当てはめると、こんな風に解釈できるんじゃないかなと俺たちが決めたよと、まとめたものなのね。

つまり、
ジョグジャカルタ原則とは、性的指向および性自認に関して国際人権法がどのように適用されるかを解釈してまとめた国際文書なわけ。

 

だから、ジョグジャカルタ原則は単体ではないわけ。そのそれぞれの「原則」には、根拠となる該当するいずれかの国際人権法が裏にきちんと存在してるはずなのね。すでにある国際人権法から、使えそうな部分を集めて解釈してまとめたものだからね。

 

原則自体には法的拘束力はないのね。
それぞれの締約国に対して拘束力のある人権諸条約にあげられた権利が、性的指向と性自認に関連してどのように当てはまるのかを示して、(当初は)29の原則にまとめたのね。
拘束力は、元々の人権諸条約側にあるわけ。

 

その元々の人権諸条約を読み込んで(元々の条約にはLGBTについての具体的なことは書いてないから)「ここはLGBT的にはこういう風に解釈することにします」と、ジョグジャカルタに集まった専門家たちが会議で決めたの。それが「原則」。

 

よって、

世界人権宣言 第1条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。

これがジョグジャカルタ原則フィルターを通すと、

すべての人間は尊厳と権利において生れながらに自由にして平等である。各個人の性的指向や性同一性のいかんに拘わらず、全ての人権を完全に享受する。

となります。

 

世界人権宣言第1条は、LGBT的にはこう解釈しますよとの原則を決めたのね。

 

要は、ジョグジャカルタ原則のすべての「原則」には、オリジナルの国際人権法のどこかの条が、一対一で対応してるはずなのです。
既存の国際人権法の、「LGBTに対する新解釈」がジョグジャカルタ原則なのですから。

 

本来は、ジョグジャカルタのすべての原則に、「これはどの国際人権法のここを新解釈しています」と書いておくべきなんですよね。
オリジナルとの恣意的な差異が、その「新解釈」に当たるわけですから、そこが分かりやすくなってないと不誠実なわけです。

 

で、現実には、その「不誠実」が事実なのです。

 

では「第3原則 法の下に承認される権利」を見てみましょう。

 

万人はあらゆる場所において法の前に人としてその人格を承認される権利を有する。多彩な性的指向や性同一性を持った人々は生活のあらゆる場面において法的能力を享受する。
各個人の自己規定された性的指向や性同一性はその個人の人格に不可欠なものであり、自己決定権、尊厳、自由の最も基本的側面の一つである。性同一性の法的承認、つまり法的性別変更の条件にホルモン療法や不妊手術や性別適合手術といった医学的治療は必須とされない。
結婚している、あるいは親であるといった社会的身分もその当事者の性同一性の法的承認つまり法的性別変更を妨げない。万人は性的指向や性同一性を否定したり、揉み消したり、抑圧するよう圧力をかけられない。

 

Principle 3
The Right to recognition before the law

 

「性同一性の法的承認、つまり法的性別変更の条件にホルモン療法や不妊手術や性別適合手術といった医学的治療は必須とされない」のここなんだけど、これは当たり前だけど世界人権宣言には直接は書いてはないんですよね。

 

ここはね、

 

世界人権宣言第五条
何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取り扱い若しくは刑罰を受けることはない。

ここをLGBT的に新解釈してると思われるわけ。だから、LGBT活動団体は「手術の強制は拷問である」「診断を受けることは、屈辱的な取り扱いである」と主張してるんだよね。

 

だから、ジョグジャカルタ原則に関しては「え?そこをそう解釈するわけ?」という疑問をたくさん解決しなきゃいけないんですよね。

 

「世界人権宣言のどこをどのように解釈したらジョグジャカルタ原則になるのか」という研究だけで、論文がひとつ書けると思いますよ。

 

ジョグジャカルタ原則プラス10(YP + 10)

The Yogyakarta Principles plus 10 (YP+10)
Additional Principles and State Obligations on the Application of International Human Rights Law in Relation to Sexual Orientation, Gender Identity, Gender Expression and Sex Characteristics to Complement the Yogyakarta Principles.

The YP plus 10 was adopted on 10 November, 2017 to supplement the Yogyakarta Principles. The YP plus 10 document emerged from the intersection of the developments in international human rights law with the emerging understanding of violations suffered by persons on grounds of sexual orientation and gender identity and the recognition of the distinct and intersectional grounds of gender expression and sex characteristics.

 

 

 

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日本学術会議の「トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けて」への批判

日本学術会議による「性的マイノリティの権利保障をめざして(Ⅱ)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー」という提言が、2020年9月23日に公表されました。

ツイッターでも多くのひとから、批判が出ていますが、読んでかなり驚きました。なぜなら、法律を作るための「立法事実が欠如」しているからです。

 

 

もちろん、「トランスジェンダーの権利保障」自体はとても重要です。しかし、それに至る根拠が以下のように書かれるのであれば、とうてい賛成できません。提言の背景を見てみましょう。

 

目下、日本でも自治体の取組やメディア等を通じて性的マイノリティの認知度が高まりつつある。教育・労働分野を中心に具体的な取組も活発になってきた。しかし、性的マイノリティを取り巻く現状は、なお楽観視できるものではない。とくにトランスジェンダーの権利保障については、環境は改善が進められている国・地域(EU 諸国など)と停滞・後退している国・地域の差が広がっている。一部のフェミニストのあいだには、「女性」をシスジェンダー(身体と性自認が一致)の女性に限定し、トランス女性を排除する動きがある。トランスジェンダーに対する理解を深めるための法整備は、トランスジェンダーの人びとの生命と尊厳を確保するための喫緊の課題なのである。

 

立法事実は、「一部のフェミニストのあいだには、「女性」をシスジェンダー(身体と性自認が一致)の女性に限定し、トランス女性を排除する動きがある」から。

だから「トランスジェンダーに対する理解を深めるための法整備は、トランスジェンダーの人びとの生命と尊厳を確保するための喫緊の課題」だというのです。

 

これは、提言の目的でもさらに繰り返されています。

 

一部のフェミニストのあいだには、女性身体ゆえに被害・抑圧を受ける女性の経験を重視する立場からトランス女性の「男性」としての経験を批判して、トランス女性を排斥しようとする動きがある[6]。

以上をふまえ、本提言では、三つの点を論じて今後の課題を指摘する。

 

[6]と、脚注がついてますね。それでは具体的に、何を指しているのでしょうか…。

[6] アジア女性資料センター2019『女たちの 21 世紀』No.98(特集:フェミニズムとトランス排除)所収の各論文参照。

 

なるほど、アジア女性資料センターの雑誌ですか。それでは、どのようなことが書いてあるのか見てみましょう。まずは冒頭の堀あきこ氏から。

お茶の水女子大学の報道時にあった懸念のうち、いまも中心的話題となっているのが、トランス女性の女性トイレについてである。トランス女性と女装した犯罪目的の男性とは見分けがつかないため、シスジェンダーの女性(性別違和を持たない女性)が危険な目に遭う。だから、女性専用スペースをトランス女性は使うべきでないと主張されている。

 危険を避けるために、どうすればトランス女性と犯罪目的の男性の「見分け」ができるかが議論され…(中略)…「トランスジェンダーは『誰でもトイレ』だけを使用すればいい」と隔離する案が出された。

 これらの言葉は、シス女性の「恐怖」を盾にトランス女性を潜在的な犯罪者のように扱い、人権を損なっている。…(中略)…トランス女性がトラブルを避けることに心を砕き、「誰でもトイレ」を探したり、排泄に我慢を強いられたりしている事実も無視するものだ。私たちは誰もが個人の尊厳を守られ、幸福を追求する権利を持っているが、いま現在、トランス女性の権利は十分に保護されていない状況なのだ(堀あきこ)。

ここでの排除は、「女性専用スペース」特に「女性トイレ」から「誰でもトイレ」への排除のようです。

 

もう半年近く、ツイッター上で、フェミニストを自称する女性たちとその同調者による取らぬジェンダー女性(Trans-woman。男性として生まれ女性として社会生活を送っている人。以下、トランス女性と略称)への排除的・差別的な書き込み(ツイート)が続けられている

 排除の対象となる場は、主に女子大学、女子トイレ、女湯、女子スポーツである。排除派は、トランス女性が、これらの「女性専有スペースに、不当にも侵入している」として排除を主張する(三橋順子)。

女子大学へのトランス女性の入学は着々と進んでいますし、それだけを批判している人は、それほどいるとは思われません。が、三橋順子氏は、「女子大学、女子トイレ、女湯、女子スポーツ」といった「女性専有スペース」からの排除を、差別と呼んでいるようです。

 

煽られた妄想的な恐怖は、一般には女性的であるとはされない私たちの身体的特徴を、性犯罪への兆候へと転換するには十分でした。奇妙な外性器、立派すぎる骨格、発達しすぎた筋肉、濃すぎる体毛、嫌悪感にかられた彼女たちは、私たちの身体の奇妙な部分を次々と発見していきました。そうして恣意的に見つけられた私たちの異質さは、私たちの仲間のうち、性別適合手術を受けていない人やパス度が低い人を、トイレさえも使うことを許されないような「エイリアン」にするには十分でした(尾崎)。 

尾崎日菜子氏は、性別適合手術を受けていない人やパス度の低い人のトイレからの排除を不当だと訴えますが、おそらくここは「女性トイレ」でしょう。

 

これらの「一部のフェミニスト」(別にフェミニストに限らず、男性も、何よりもトランスセクシュアルなどのトランス女性達からも疑問や不安の声が出てきていたと思いますが)から、女子トイレ、女湯、女子スポーツなどにおける安全確保に関して不安の声が挙げられていることが、「排除」であり、だからこそ早く立法をおこなって、性別変更の手続きを緩めるべきだという提言がなされているのです。

 

逆だと思います。海外では法改正によって、性別変更の自由度が高まり、様々な問題が引き起こされていることを議論の背景として、女性たちが、女子トイレ、女風呂、更衣室、DVやレイプなどの被害者のシェルター、刑務所などにおける安全の不安を訴えているのです。ですから本来なら、慎重に議論を積み重ね、国民的なコンセンサスを得るようにしなければならない、ということが結論となると思いますところが、容易な性別変更ルールへの不安や批判を「排除」と呼び、それをもって早急な立法への根拠とすることは、倒錯していると言わざるを得ません。

 

控えめに言っても、

 

 

本気なのか、聞いてみたい…。

しかもこれは、「フェミニスト」を、明らかに貶めて、馬鹿にしていると思います。ほかにも言いたいことはたくさんありますが、今日はここまで。個人的にはスポーツに関して、

 

日本スポーツ協会は、2020 年2月、SOGI 差別解消のためのガイドラインを公表した(資料⑮)。IOC は、2000 年に女性選手の性別確認検査を廃止した。医学的に性を明確に区別することはできないことや人権を侵害しないことのほうが競技の公平性を維持するよりも重視されるべきであることが主な理由であった。2004 年には IOC や世界陸連(WA)が一定の基準を決め、トランスジェンダーの選手が自認する性で競技をする道が開かれた。しかし、基準からはずれる者の処遇など、模索中の課題も多い。

 

こういった記述は、あまりに雑で、中立性を欠いていると思います。

 

「模索中の課題」で済ましているけれども、2018年にIAAF(現在はWA)が「性的発達の差異」に関する新たな基準を採用し、中距離競争でテストステロン値は6ヶ月継続して 5 nmol/L未満に抑えなければならなったことが、セメンヤ選手の処遇の問題を引き起こしたわけであるし、高レベルの内因性テストステロンとスポーツ・パフォーマンスの間に、科学的なエビデンスを用いるようになりました。競技の公平性と人権をめぐってはつねに緊張関係にあり、さまざまに制度が改変されてき続けているにもかかわらず、「医学的に性を明確に区別することはできないことや人権を侵害しないことのほうが競技の公平性を維持するよりも重視されるべきである」という理由だけを表記し、性別確認検査があたかも不要になったかのようなミスリードを誘うのも、どうかと思います(ちなみにこれは、インターネット検索で、知り得る範囲の情報です)。

 

そして現在特例法を利用している性同一性障害(性別違和)の方たちに対しても、少し敬意を欠く提言ではないかと思う箇所が多々ありすぎました。

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【試訳】しかし、Self-IDのような奇妙なアイデアは、どのようにしてこれほど多くの政治的牽引力を獲得したのでしょうか。

 

 

英国政府が本当にSelf-IDを拒否した場合、それは「gender identity」ロビーにとって歴史的な敗北となるでしょう。 しかし、Self-IDのような奇妙なアイデアは、どのようにしてこれほど多くの政治的牽引力を獲得したのでしょうか。 それは奇妙で厄介な話です。

それはすべて1974年にエジンバラで始まり、2人の男がヨーロッパ中のゲイ組織を集めて国際ゲイ会議(IGC: International Gay Congress)を結成しました。 そのうちの1人であるIanDunnは、悔い改めない小児性愛者であり、PIEの創設メンバーです。 これが彼の死亡記事です。

https://www.independent.co.uk/news/obituaries/obituary-ian-dunn-1151494.html

 

IGCは、やがて国際的なゲイの権利団体であるILGAになります。 ILGAは、1994年に小児性愛者組織とのつながりが明らかになったときに国連NGOとしての地位を保留にされました。

これがILGA自身のその大失敗に対する見方です。

https://ilga.org/ilga-ecosoc-status-controversy 

 

ILGAがついに国連NGOに復帰したとき、2006年に、国連は「同性愛者の権利を適切に受け入れるべきである」と主張する勢力に戻りました。

しかし、ジンバブエやサウジアラビアなどの反対を克服することはできませんでした。

それで、ILGAは素晴らしい考えを持ちました。

インドネシアへの旅行はいかがですか?

 

2007年、ILGAは人権弁護士をインドネシアのジョグジャカルタへの旅行に招待し、そこで人権憲章を作成し、同性愛者の権利に関する決定的な声明を作成することを望みました。 

運命的な間違いがありました。 その日の終わりに、スティーブン・ウィットルのようなトランス活動家も招待され、新しい「ジョグジャカルタ原則」に性的指向と同等の地位を持つ「性自認」を含めることを主張しました。 そして彼らは勝ったのです。

 

ジョグジャカルタ原則の性自認条項の中心にあったのは、トランスジェンダー活動の周辺から取られたSelf-IDの概念でした。

これは、誰もがidentifiedした性別として法的に認められるべきであると述べたもので、その件について質問はありませんでした。

そしてそれはすぐに世界中の活動家によって促進されました。

 

ジョグジャカルタ原則のナンセンスを最初に導入したのは、2012年に息を呑むほど腐敗していたアルゼンチンでした。

これは、恐ろしいクリスティーナキルヒナーがSelf-IDを使用して彼女のイメージを向上させた方法を探るスレッドです。

彼女の純資産は推定1億1500万ドルです。

https://twitter.com/TwisterFilm/status/1215336108776706050?s=20 

 

ひどく堕落したマルタがEUに加盟し、その政府が進歩的であるように必死に見せようとしたので、Self-IDを通過させました。

この政策と横行する汚職の批評家はダフネ・ガリツィアでした。 その同じ政府の主要メンバーは現在、彼女の死に関与しています。

 https://www.theguardian.com/membership/2020/feb/08/malta-daphne-caruana-galizia-murder-journalist-investigation

 

pinknewsは、マルタがILGAのLGBTの権利ランキングで、トップであったスコットランドを追い抜いたことを嘆きました。

マルタの兵器級の腐敗の事実についての言及はありませんでした。

 

Self-IDは「国際的なベストプラクティス」であると言われています。 しかしそうではありません。

アイルランド、デンマーク、ノルウェーでは、結婚の平等を求めるキャンペーン中にSelf-IDが密輸されました。

トランスロビーグループへの法的助言からの抜粋が認めているように、これは意図的な戦術でした。

 

大衆が決してそれに従わないことを彼らは知っていたので、「Self-IDをあえて議論しなかった」というロビーの欺瞞的な戦術を暴露しました。

彼らは代わりにトロイの木馬として同性愛者の権利を利用することに決めました。

https://www.spectator.co.uk/article/the-document-that-reveals-the-remarkable-tactics-of-trans-lobbyists 

 

英国では、この戦術はストーンウォールUKによって利用されました。
2015年にトランスジェンダーの権利を最優先事項として採用した人は、みんなのお気に入りのトランス活動家、あごひげを生やした「レズビアン」、アレックス・ドラモンドを含む彼らが設置したトランス諮問委員会でした。

 

JK.ローリングは、トランスジェンダーの人々が望むように生活する権利を公に支持しました。しかし、国民は、彼女はヘイトを持っていると主張する攻撃に困惑しました。 

https://twitter.com/TwisterFilm/status/1307883098516983809?s=20

 

参考:

ジョグジャカルタ原則の真実

 

 
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思想警察に抵抗するJKローリング

イギリス共産党のHPに掲載された、JKローリングに関する論考を試訳しました。大学を出た若い人たちが、JKローリングを攻撃する理由は、「ポストモダン」思想の影響だという指摘には、個人的にはもろ手をあげて賛同することはできませんが、「思想警察」の問題点は、確かにあります。


簡単そうに見えて、諧謔が効いていて、とても訳しにくかった。間違いなどあれば、お知らせください。

 

 

思想警察に抵抗するJKローリングのスタンス(2020年7月9日)

著者であるJKローリングの現実を守るという勇気あるスタンスは守られるべきだし、ローリングをヒステリックに中傷する人たちは、いかに酷い反動的ないじめをする人たちであるかを知らしめています。

 

いまや、ハリーポッター本の著者であるJKローリングが自称トランス活動家の標的になっていることは、おそらく世界中でよく知られているでしょう。なぜなら、彼女はツイートで、「月経のある人」の代わりに「ジェンダー化された」言葉である「女性 women」を使うことを避けようとする試みを、やんわりとあざ笑ったからです。

 

ポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)を強制する人たちには、ローリングを「ばばあ」と呼ぶことから、身体的暴力やレイプをすると脅すものまで、様々な反応がありました。素敵ですね!

 

これらの憎しみを吐き出している人たちは、脅迫行為で犯罪として訴追されるべきですが、実際には彼らの方が、セックスは生物学的な現実であると認める人たちを批判するという厚かましい事態になっています。セックスは生物学的現実だと認める人たちは、必然的にトランスの人たちを「憎んでいる」というわけなのです。でも、明らかにセックスが生物学的な現実であるということと、トランスの人たちを「憎んでいる」ということの間には、論理的な結びつきはありません。

 

ローリングさんは、6月12日の「Times」に、それに対する長い文章を書いてこたえています。それは、ローリングはトランスに深い共感を寄せるけれども、それと同時に生物学的な性別を否定することはできないというものでした。

 

 

 

トランスの人々に共感を寄せ、事実上トランスの人たちが選んだ性別(gender)で生活する権利を認めることは、しかし、男性と女性という異なった性別(sex)が存在しているということを否定するものでも、生物学的な性別が存在しないと宣言させられるものでもありません。それは女性であることや女性の権利を否定するに等しいことだし、近代社会における女性嫌悪をかなり反映するものでもあります。

 

ローリングさんがこのように共感的に、そして繊細にこの問題にアプローチしていることは、間違いなく、イギリス(British)の圧倒的多数の人々の態度と同じです。しかし、ハリーポッターの映画に出演することで有名になった様々な俳優たちが、嫌がらせの雄たけびをローリングに向けてあげたこと、例えばいそいそとローリングさんを非難し、彼らの友人関係からローリングさんを追い出したことは、信じられないことです。

 

しかし、ひどく愚かだと非難されるべきは、彼らの方です。もちろん、彼らにだって馬鹿げた見方をする権利もありますが、友情を壊すようなものである必要はないわけですし、ましてや身体的暴力やレイプの脅威である必要はないのです。

 

トランスの人たちに対する態度に関して言えば、トランスの人たちは殴られ、殺されるべきだと宣言したり、ましてやわざわざ嘲笑したり、馬鹿にしたりしていいと言う人とは、友達をやめるでしょう。でも、例えば出生証明書の変更認定はちょっと行き過ぎているとか、そんな考えに賛成できないというだけで、その人の友情が終わりになりますか? または、明らかにまだ身体的に男性である人たちに、女性の更衣室を使うことを許可してはいけない、女性の避難所にいるのはどうかと主張する人たちに賛成できないときには? または、身体がもともとは男性だから、強さの面で優れているから、スポーツで女性と競争するのはどうかとということに、賛成できないときには?

 

政治的な正しさを利用するいじめの多くは、大学在籍中の学生か、大学院生、大学を卒業した若い人 (graduates)であり、このことは大学が、今日の人文科学の学生たちに「ポストモダン」の観念論的な思想を押し付けているという事実と関係しています。こうした思想は、物質世界に当たるものは観念の正しさを判断する土台をもたないと、主張するものです。それどころか、これらの近代を否定する思想によれば、正しさの唯一の基準は、多くの人たちが真実だと「信じる」ことに過ぎないというのです(もしくは、エリートたる「教育を受けた」多くの人たちが真実だと信じること)。

 

 

 

もしも、この物質的な世界から、具体的で、否定のしようのない証拠を示したとしても、人々に心を入れ替えるように説得するのは、必ずしも簡単ではありません。だから、もしもあなたが真実の基準として物質的な現実を否定するとしても、違った意見を押し付けられて、それが大多数の人の「パブリックオピニオン」、ポストモダンの意味では新しい「本当 true」の考え方なんだと、受け入れろといわれたからといって、すっかり態度を変えてしまうなんてことができますか?

 

ええと、同意してくださいと誘導して、錯覚させることはできるでしょう。でも、それがうまくいかない場合、もっと地に足が付いた、真面目なタイプの人相手の場合、できることは、恐怖で黙るだろうと期待して、いじめや脅しをすることしかありません。ほかに何ができます?この点で、確かに、殺してやる、怪我を負わせるぞ、厳罰を与えるぞ脅すことで、宗教的な信念を諦めさせようとする、間違いなく非難されるべき人々と、なにか違いがありますか?

 

いくつかの不可解な理由のために、「政治的に正しい」ことはしばしば「左翼」である人々にもっぱら帰せられます。マルクス主義はもちろん、通常、「左派」の本質的な哲学であると考えられています。しかし、マルクス主義の哲学は弁証法的および歴史的な唯物論(materialism)であり、どんなに多くの人々が学んだり信じているかもしれないけれども、それとは関係なく、その最も基本的な信条の1つは、観念は、物質的な現実と一致する場合に「だけ」真実だというものなのです。

 

かつて実際に、人々はみな、地球は平らであり、太陽が地球の周りを公転していると信じていました。しかしそれらの考えは、結局、真実とはならなかった。したがって、女性と男性の間に生物学的な差異はないと信じるようにと嫌がらせをしようとも、それは真実になることはないのです。

 

(男女に)違いがあるって最高!Vive la difference! 女性の権利を守り、女性の権利を消去させないようにしましょう! 思想警察を告発しましょう! JK ローリングと、真実を擁護する人を支持しましょう!

 

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再考して欲しい。朝日新聞「ネットで広がるトランスジェンダー女性差別、背景に何が」記事

新聞であるのにあまりに取材がされていない。もう少し報道の責任を考え直して欲しいと思う。朝日新聞の「ネットで広がるトランスジェンダー女性差別、背景に何が」という記事である。

 

有料記事であるが、途中までは無料で読める。

ネットで広がるトランスジェンダー女性差別、背景に何が 

 

まずこの記事で断定されている「トランスジェンダー女性差別」が何であるのかがわからない。

国内の動きとして

 

お茶大が受け入れを発表した2018年ごろから、トランス女性がトイレなどの女性専用空間を使うことにより「トランス女性を装って性犯罪をする人が出る」と訴えたり、トランス女性を「男体持ち」と蔑称で呼んだりする排除的なメッセージが目立つようになった。

国外の動きとして

 

(J.K.ローリングが)ツイートで「『月経がある人たち』。かつてはこうした人たちを指す言葉があったはずだけど」と、「ウィメン(女性)」という言葉をほのめかして揶揄(やゆ)。トランスジェンダーらの存在を無視し、「月経の有無によって性別が決まる」と言わんばかりに、論考のタイトルを皮肉った。 …ウェブサイトで過去に自身が受けた性暴力被害を明かし、「自分は女性だと信じる男性にトイレや更衣室のドアを開放すれば、中に入りたいと思うすべての男性にドアを開けることになる」と持論を重ねた。

この2つが挙げられている。J.K.ローリングに関しては、「トランス女性を排除しようとする投稿者には、彼女のように、性差別に関心の深い女性とみられるアカウントも多いことが問題を複雑にしている」とまとめているので、これを「差別」と「排除」だと判断していることがわかる。しかもフェミニストがそれをやっているのだから、問題が複雑だというのだ。

 

 

 

お茶の水女子大学が、SRS手術はもちろん、性同一性障害であるという医師の診断書も不要で、本人の「女性」だというアイデンティティに基づいて入学を許可するという、ある意味で、セルフIDに基づいての女性の入学を決めた。奈良女子大も診断書は求めていない。途中でジェンダー・アイデンティティが変わって、「男性」に戻ったとしても、就学機会は保持すると明言している。

 

お茶大のニュースが発表されたあと、「自分も勉強して女子大に行こう」「風呂は覗き放題」などというそれを揶揄する男性たちのツイートから、確かに、恐怖を感じた女性たちがいたのは事実である。女風呂やトイレの使用をめぐって、「トランス女性を装って性犯罪をする人が出る」「男体持ち」という言葉は一部、一時的にネットに踊った。それは否定しない。しかし、今現在こういった発言が続いていて、この問題を考えるときに一番に出てくる問題かと言われれば、ちょっと首を傾げざるを得ない。

 

多くの人は問題は、トランス女性という「人」そのものではなく、セルフIDだと認識していると思う。すでに女性として生きていて、女性トイレを使用している人達を、そこから追い出すというような主張は、ほぼ皆無といっているのではないか。むしろトランスライツ活動家による「くたばれGID(という概念)」「SRSは断種手術」などという発言が、現実に女性として、埋没して生きている(トランス)女性を傷つけていることを、気の毒に思っている人達だって多い(GIDとは、性同一性障害のことである。当初は(という概念)という部分はなかった)。

 

自分もそうであるが、多くの女性は、こうした「生まれたときに割り当てられた性別と自分の性の認識が異なるトランスジェンダー」に寄り添いたいと思っている。問題は、海外でも導入されたセルフIDである。これが日本にも導入された場合に、「性表現」が女性であれば、いや、性表現が女性である必要もなく、確かめようもない「自分の性の認識」に異議を唱えることは不可能になり、「女性の安全」がどう確保されるのかわからないという不安があるだけだ(個人的にはトイレや風呂の問題は、トランス女性や女性、そして子どもや、究極的には男性も、すべての人の安全が確保されるなら、誰がどんな格好をして性表現をしようが、ジェンダーアイデンティティを持とうが、どうでもいい)。

 

その不安の源泉は、実際に女風呂に「ちんこ股に挟んでちーっす」と入っているであるとか、「嫁以外の裸見たい」などと発言しているトランスの当事者の発言である。そして、「いまは権利を行使しないだけで、女風呂に入る権利はあるんだ」などという発言が活動家から出てきているからである。そうした動きを書くことなく、このような発言をことさらとりあげることは、どうみても現状を反映しているとはいえないし、アンフェアであるとすら思う。

 

 

 

ローリングに関しても、作品で女装した「シス男性」による殺人の描写があっただけで、直ちに「トランス差別」と決めつけられて、ネットで「葬式ごっこ」をされているさなかに書かれた記事だとは思えない。ハリーポッター本を燃やされるという、焚書事件がネットに次々と投稿されている現時点で、そういうことも全く書かれていない。当然、ローリングが「月経のある人」発言によって、どれだけの言葉の暴力にさらされ、ネットリンチを受けたのかもまるで書かれていない。

 

これらの発言が「フェミニスト」から出ているのは、問題を複雑にしているのではなく、考えてみたら当たり前だ。生理用ナプキンから女性のマークを取り去るように要求したり(実際に実現した)、プッシーハットはトランス差別であるから被るべきではないと主張され(また性器がピンクではない有色人種への差別でもあるとも主張された。難しいね)、そして「生理のある人」を単純に女性とは呼ばないこと。こうしたことは、「トランス女性」への配慮であると同時に、これまで「女性」がもっていた身体への意味づけが変更されてしまうことでもあるからだ(このことはまた別の機会に)。

 

タイトルに、「背景に何が」と銘打っているからには、最低限のこうした問題の「背景」を書き込んで欲しかったと思う(ruru)。

 

※編集代理が、当人の了解を得てこちらに転載いたしました。

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